Masuk土曜の午後。
カーテンの隙間から射し込む光が、テーブルの上のマグカップを照らしている。 朱里はソファに腰を沈め、膝の上にノートパソコンを開いたまま、ページをスクロールしていた。 ──中小企業診断士 二次試験 勉強法。 嵩が合格した資格。その名を見ただけで、昨日の雨の夜のことを思い出す。 「また映画行きたいです」 自分の口から出た言葉が、まだ耳の奥で反響していた。 そして嵩が少し驚いたように笑って、「いいね。また行こう」と答えた、あの声も。 朱里はスマホを手に取った。 LINEを開くと、最後のメッセージ履歴には嵩の名前が並んでいる。 『無事に帰れました?』 『はい。傘ありがとうございました』 そこまで送って、その先に何も続けられなかった。 “また映画、いつ行きますか?朱里の言葉が終わったあと、風の音だけが二人の間を通り抜けた。 駅前の喧騒は相変わらずなのに、ここだけ時間が一拍遅れているようだった。 嵩は、すぐに何かを言わなかった。 それが朱里には、ありがたかった。 問い返されるのも、掘り下げられるのも、今は違う。 ただ受け取ってほしかった。 「……怖かった?」 不意に、嵩がそう言った。 責める響きでも、探る声音でもない。 事実をそっと置くみたいな、静かな問い。 朱里は少し考えてから、頷いた。 「うん。今も」 それだけでいい。 付け足さなくても、否定しなくても。 嵩は小さく笑った。 「それ、言ってくれてよかった」 「……え?」 「好きだって言われるより、今はそっちのほうが、ちゃんと届いた」 朱里は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。 言わなかった言葉まで、見透かされたようで。 でも、不思議と嫌じゃなかった。
駅前のベンチに座り、朱里はスマートフォンを伏せた。 嵩に会うまで、まだ二十分ある。 けれど、時間が余っているから落ち着けるわけじゃない。 むしろ、考える時間が増えたぶん、頭の中は騒がしくなっていた。 ──何を、どこまで話す? 昨夜、ノートに書き出した言葉たちが脳裏に浮かぶ。 寂しかったこと 置いていかれる気がしたこと 「大嫌い」と言えば、距離を保てると思っていたこと 全部、真実だった。 全部、重すぎる気もした。 朱里は息を吐く。 「全部言う必要は、ない」 誰に言うでもなく、そう呟いた。 嵩に分かってほしい気持ちはある。 でも、分からせたいわけじゃない。 ──選ぶんだ。 ──今の私が、背負える分だけ。 朱里は立ち上がり、歩き出す。 足取りは軽くないけれど、止まらなかった。 角を曲がった先で、嵩の姿が見えた。 少し早めに来たのか、壁にもたれて空を見ている。 その横顔は、以前よりもどこか疲れて見えた。 朱里の胸が、きゅっと縮む。 (ほら、また)
店の看板に灯りが入ったのは、約束の時刻より少し前だった。 朱里はそれを見上げて、一度だけ深く息を吸う。 ──逃げない。 ──取り繕わない。 ──でも、全部は言わなくていい。 第179話で絞り込んだ「話す内容」が、胸の奥で静かに整列している。 言葉はまだ完全な文章になっていないが、順番だけは決まっていた。 扉を押すと、鈴の音が小さく鳴る。 嵩は、すでに来ていた。 窓際の席。背中を少し丸めて、手元のカップを両手で包むようにしている。 視線が合った瞬間、どちらも声を出さなかった。 立ち上がることも、手を振ることもない。 ただ、同じ場所にいるという事実だけが、ゆっくりと二人の間に降りてくる。 朱里は一歩、また一歩と近づく。 嵩はその足音に合わせるように、ほんの少し姿勢を正した。 「……久しぶり」 先に口を開いたのは朱里だった。 思っていたより、声は落ち着いていた。 「うん。久しぶり」 嵩の返事も、短い。 けれど、その一言に余計な温度はなかった。 それが、今の朱里にはありがたかった。 二人は向かい合って座る。
その日、嵩は定時より少し早く会社を出た。早く着きたいわけじゃない。遅れたくなかった。(待たせる側には、なりたくない)駅前の喫茶店。昨日と同じ場所、同じ窓際。店員に案内され、席に着く。コーヒーを頼み、スマホを伏せる。朱里に連絡はしなかった。(急かすことになる)待つ、と決めたのは自分だ。時計を見る。まだ、十分以上ある。(……落ち着け)背もたれに体を預け、深く息を吸う。転勤。答え。選択。朱里の顔が浮かぶたび、その全部が一つに結びついて、胸が詰まる。(正直に言えばいい) (でも、正直って何だ)行く。行かない。それだけの話じゃない。(俺は、どうしたい?)しばらく考えて、苦笑する。(……まだ、決めきれてない)それでも、今日話すことは決まっている。隠さない。濁さない。逃げない。美鈴の言葉が、ふいに浮かぶ。“待つなら、ち
目が覚めた瞬間、朱里は「今日だ」と分かった。目覚ましが鳴る前だった。頭より先に、体が起きていた。(逃げないって、決めた日)カーテン越しの朝の光が、少しだけ眩しい。いつもより早く起きたはずなのに、時間はゆっくり流れている。キッチンでお湯を沸かす。カップにコーヒーを注ぎながら、手元がわずかに震えた。(……緊張してる)当たり前だ。昨日、ノートに書いた言葉を思い出す。好き。怖いけど、逃げない。転勤は、一緒に考えたい。一緒にいたい。たったそれだけなのに、胸の奥が重い。シャワーを浴び、髪を乾かす。服を選ぶ。気合いを入れすぎない。でも、だらしなくもしない。結局、いつもの服に落ち着いた。(これでいい)鏡の前に立つ。「……大丈夫」声に出すと、少しだけ現実になる。出勤。電車の中、スマホを見る。嵩からのメッセージは来ていない。(今日は、言葉を準備する日じゃない) (受け取る日だ)
夜。部屋の電気は落としたまま、スタンドライトだけをつけていた。静かすぎると、考えが暴走する。でも明るすぎると、逃げ道がなくなる。その中間。朱里はソファに座り、膝にノートを置いた。(……話す内容)嵩と話す日が、決まった。“場所”は決めた。次は──“中身”。ペンを走らせる。・好き・怖い・転勤・一緒にいたい・失いたくない・でも、縛りたくない全部、本音。でも全部言ったら、きっと相手が溺れる。(選ばなきゃ)一度、ノートを閉じる。好き。これは、言う。怖い。……これは?(怖いって言われて、嵩はどうするだろう)守ろうとする。背負おうとする。それは、嵩の優しさで、今まで何度も自分を逃がしてくれた場所。(でも、今回は)“怖い”は、言う。ただし、丸投げしない。ノートを開き直す。・怖い(でも逃げない)次。